騒動の後に

 多くの国民に、何とも言えない虚脱感というか、むなしさだけを残した永田町の“大騒ぎ”から二晩が過ぎました。各新聞等でも検証が続いていますが、やり場のないいらだちがつのるばかりです。

 私は一地方議員で、一民主党員に過ぎませんので、今回の不信任案を巡って、行動する立場でもありません。同時に直接的立場ではなくとも、与党である民主党県連の幹事会メンバーで、民主党の県議であることを踏まえれば、有権者の皆さんから批判の声を寄せられることはあっても、それぞれの政治行動をとやかく言うべき立場でもないと考えています。ただ「今為すべきことは何なのか」ということを真剣に考えてほしいと願いながら、今回の政局を眺めていました。

 もちろん、理屈で言えば「菅政権には任せられない」と不信任案を提出した自民党を中心とする野党勢力も、民主党の中でその不信任案に賛成に回った、また回ろうとしたグループも、そして不信任案を否決した民主党衆院議員の大半も、それぞれの“手法”で「今為すべきこと」に取り組もうとしたということになるのでしょう。ただ、そのすべてが大半の国民の思いとは別のところにあったのではないでしょうか。

 政治記者として永田町を見てきたので、永田町の動きが必ずしもわかりやすく国民の思いと連動しない現実があることは知っています。行動を起こす原動力は、一定割合の国民の思いと共通していたはずなのに、永田町というシステムの中で、結論は理解しがたいところで落ち着いてしまうという局面を何度か目の当たりにしてきました。

 不信任というのは、当然ながら単純に「首相がけしからんから辞めさせるべき」というだけのアクションではありません。むしろ本当の狙いは、その後の政治(というか政界)変動にあるわけです。今回の“騒動”でも、可決されれば民主党分裂で、自民党との大連立だの、新党結成だの、解散だの、政界再編だの・・・・様々な可能性が取りざたされました。そしてそれぞれの「可能性」の背景には、無数の思惑がはりついているわけです。今回の不信任案で考えても、自民党と、民主党内で賛成を模索していた勢力との思惑が同じはずはありません。ただ政治が一種の権力闘争である面を否定できない以上、この世界ではそれぞれの思惑が瞬間的に近接することで多数派が形成されていくのも事実でしょう。

 しかし今回は、あまりにもその思惑が透けて見えていた気がします。特定の勢力だけではなく、すべてのアクターがそうでした。だから国民の目にはむなしく映り、「大震災後のこの時期に・・」というため息が広がっただけでした。永田町の独りよがりの興奮は、国民にとっての政治刷新という興奮にはまったくつながりませんでした。

 今回の騒動がさらなる政治不信に拍車をかけることは間違いないでしょう。大きなカテゴリーで言えば、政治に携わる者の一人として残念で仕方がありません。

 先日、この不信任騒ぎの最中に上京した折、ある大ベテラン議員と話をしました。93年の政局の際に自民党を飛び出した経験のある方です。「あの時、我々はみんな涙を流しながら行動した。そんな気持だった。今の動きにそんな空気があるかい?」。尊敬する大先輩の言葉には、今の政治の軽量感への怒りと物悲しさが漂っていました。

【渡辺創】